昭和40年06月15日 夜の御理解
最近私がまあ言うなら、寝ても覚めても思わして頂いておる事、それは今度の御造営が思い立たれて、それが段々具体化して参りまして、それが本格的に実際の事として、取り組まれて参りました。土地が購入され、泥盛りが成され、建築業者への方への、決定もみたといよいよ、まぁ実現化する、ことをまあ目指しておる訳でございますけれども、果たして例えて、まあ言うなら、ここの、現在の椛目の、敷地だけでも、20倍以上である、建坪でも10何倍になる。
例えばそういうような、言うなら高層な屋敷にです、高層な建築の中にです、しかも私が中心として、まぁおかげを頂くように成らして頂くためには、果たしてそこに私が中心と成らして頂けれる資格があるだろうか?と、無いどんなに考えてみても無い、ならばです、どうでも、そこにふさわしい私に成らして頂かなければならんのであり、実力を頂かなければならん、とこう、思うわけです、ね。
ためには、うん、ならどういう信心をさして頂いたならよいだろうか?と言うことを、最近はもう寝ても覚めてもそのことを考えるんです、「どうぞ御造営の成就」そういうことは、はもう、まず考えないですね私は、ね。例えばああして大きな大事業に、信奉者の皆さんが、取り組まれて、ね、その皆さんの意欲と言うか、元気な心と言うかそういう心が、このおのずと出けて来たということに対して。
この頃の月次祭の時にお礼を申し上げて神様から頂いたんですけれども、そう言う様にしてかたやご信者さん、信奉者の方達会員の方達の上には一生懸命。昨日は熊本から、お参りをして来た会員の方達と一緒に、私は当然会員神愛会に加入してあるもんとばっかり思うておった熱心な信者さんがあるんです、ところがその人はその、あそこにもれている訳なんですねぇ、実行委員の中に、ほんで私、私ひかえておりましたら。
一番口に言われることが、「先生どうぞあの、神愛会員に入らせて頂く資格の、を頂けれるための修行をさして下さい」っと。もうあのあそこへ会う顔会わせると、あの途端にそれを言われるもんですから、「それなんですか?」って言うたら、「私あの神愛会員に、加入していませんでした」と、「ですからそのために、今度の御造営の事にも、なんのお通知も頂けませんでした。
まあ自分の心持ちでは、来させては頂いておりますけれども、やはり会員として」って、「そしておかげを頂きたいと思いますから」とこう言われるんですね、「はぁそうでしたか、そんならあそこに書き込んで頂かにゃいけませんなぁ」と、ねぇ、例えばあそこに書き込んで頂くと言うか、会員としてのです、ための「修行をさして下さい」とこう言う、「それだけの資格を頂くための修行をさしてくれ」とこう言われる。
例えば私が、あちらへ移転と、ただ「移転」と言うだけではなくてこの小さいお家から大きなお家に移らして頂く、さぁ小さい家なら私の、現在の、言わば、信心で支える事が出けておったけれども、大きな家になって、私が力が無くて支える事が出来なかったなんていったら、もう大変なこと、神様に対しても相すまん、一生懸命に、おかげを頂かれたご信者さんの皆さんに対しても相すまんことになる。
そこで私はもう本当に、寝ても覚めてもそのことを思い続ける、どういう信心さして頂いたら今度出来るところの、お広前にふさわしい中心としての、おかげを頂けるだろうか?ということを思い続けておるわけでございます。今朝からでございました大和さんがお夢を頂かれた、毎朝朝の御祈念に参ってみえるですねぇ、お父さんの霊様がね枕辺に現れなさったげな。
「今度の御造営には、実意の限りを尽くせ」って言わっしゃったげな(笑)そして「その実意の限りを尽くすということはどういうことでしょうか?」と「先生と繋がる事だ」と仰ったげな。「先生と繋がるっていうことはどげなことでしょうか?」って言われるから、「実はですねぇ、大和さん夕べ私は、休ませてもらう時、丁度娘達が二人連れで、私が寝間に入らせて頂いたら。何時もこう布団を掛けてくれるんですよ。
ほんであそこで、そうさして頂きながら、何の事からだったでしょうか、本当にやまっあの皆さん一緒に一生懸命の中に大和さんなんかの、実意丁寧なのにはもう、驚くばかりだね」と言うて話したことでございました、夕べ話した事なんです、私共は豊美と愛子と三人でですねぇ。例えば今度のあの御大祭にですね、どうでもあの私の、あの八畳の居間と、こっちょのと三畳の、ですから十一畳ですね。
あそこの畳をどうでも、あの、表替えじゃない、新しく替えるっち言われるんです。言わば半年後にはあちらに移らなければならないでしょ、ご承知のようにまだ、まだ立派な畳だったんですよ、ね。けれども大祭前の御用としてです、やっぱどうでもおかげ頂きたいと言われるから、私はそれを無理に「うんならよかが、ならもう半年後にはあんた、ここはもう開けていかならんといかんとじゃから」とは。
申しっもしあの勢いに対して私は、よう、いっ、言いませんでした。そのことを私は夕べ、子供達と話したことでございます。「信心ちゃここじゃろうなぁ」って、もう半年後にはここを開けるんだけれども、先生がやっぱりここにあの寝起きをされる、せめてここだけなりとも、表を自分の手にかのうたことだから、ここはさして頂きたい、畳屋さんですからね、「畳み替えさせて頂こう」とこう言われる。ね。
「実意の限りを尽くせ」とお父さんの霊が、言われた、「実意の限りを尽くすということは、親先生と繋がることだ」と言われた、ね、そういうおかげを頂かせて頂くためにです、本気で繋がらせて頂きたい、本気で、実意丁寧のしんっ、のお、ことを、尽くさせて頂かせて頂くために、現在の、大和さんの修行が私はあっておるとこう思うんですね。これは例えば、久富、勇さんなら勇さんの例をとってもいいです。
それこそ自分達の、例えば、ずにはばかりきらんような、思いを今度の御造営には賭けておられる、「私共があの時、あのおかげを頂かなかったら、現在の私共はどげんなっとるじゃ分からん」とこう言われる、ね。だから言わば今度の、言わば私共の一生一代の御用をです、さして頂きたいとこう願うておられる、ためには私は「御用がしたい、御用ばさしてもらいたい」というだけじゃならんというので、ああして皆さん御承知のような、ご修行がでけておられる。
「朝の御祈念にでも、もし朝のお出ましに遅れたら、一日断食致します」っち、皆さん朝ご承知でしょ時々あの米を、こう一升づつぐらい、お供えなさるでしょうが、後なさると、その別にあれは、あん時には、朝遅られておられる時なんですよ、「朝のお出ましの時間にです、遅れた時には、私その日一日を、食を断ってから、その食を、そのまま神様にお供えする」とこう言われる、ね。
そういう例えばですね、なら「御造営」ね「お供え」とお供えをさせて頂く資格というものを作るためにです、それだけの事をなさっておられるというわけなんですね「自分が持っておるもんだからお供えする」っちね、それだけの事をさせて頂くための資格が要るのですやはりね、そのためにあれだけの修行、しかもその修行が少しでも欠けたら、自分の身を削ってでも神様の前にその真を現していこうと言う様な信心です。ね。
ただ私がですなら、現在ここのお広前から、ただあちらへただ移りさえすりゃぁよいというのじゃぁない、移らして頂くためにはあのお広前にふさわしい、私ためにはどういうような信心をさして頂いたらよいのであろうか、どういう信心の飛躍を遂げさせて頂くことが私にその言わば、あちらのお広前にふさわしい、私として中心としてのおかげを頂けることであろうかという事を、明けても暮れても思い続けるということね、
ただ移るだけでは、いけんということが分かるでしょ、皆さんも例えばうんなら、御用さして頂くというだけではいけんでしょ、その御用さして頂くだけの言わば信心が、まず必要であるということ「御造営よりもまず信心の造営を」と言われるのも、そのためその裏付けあって始めての御造営である、ね。そういう一生懸命のものが、私は結集しておかげを頂いたものでなからなければ。
あちらへおかげをこうむらしてもろうて、それがいよいよまた、しっそれっそこのお広前にふさわしい、御ヒレイを頂く事は出来ん、またそこのお広前に移らして頂いた、そこのお広前の、信者会員としてです信奉者としての、御ヒレイを受けるということは、出けないと私は思うですね、ね。例えば一つの御用をさして頂くでも、その裏付けとして、御用のさして頂けれる。
だけの資格を頂くための、信心修行熊本のその方じゃないですけれど、「私は会員にあっ、入れて頂いてないとまだ、どうぞ会員に入らして頂くだけの、信心修行さして下さい」と昨日、言われるようにです、そのくらいな私は思いがあって神愛会員としての、おかげを頂かせてもらう時に、本当の神愛会が充実した、内容が伴のうたおかげになってくると思うのです。
おかげをいただかないけません。